sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

優生思想・老害・集団自決

現在表層に出ている優生思想っぽいものへの共感って、結果として優生思想になってるだけで、社会の事を考えてというより個人の感情に端を発してるんじゃないかなって気がします。

共感の話ですから、そういう思想を発信して先導・扇動している側の話ではありません。その思想の受信者側が発信者の理屈そのものに反応しているのではなく、発信者が出している優生思想以外の何かしらのメッセージに個人の抱えている感情の部分が反応しているという話です。

それは言い換えれば、発信者が受信者の何を利用して、自分の邪悪な思想を社会に実現しようとしているのかと言うことです。*1

 

例えば。

発信者の意図が社会の口減らしだとしましょう。

しかし受信者が共感するのは社会の口減らしという隠された目的ではなく、自分の死の自己決定権の実現(安楽死尊厳死の法制化)といった部分を見ているという話です。

 

それではここに老害や集団自決といった先鋭的な発信者の言葉がどう関わってくるのか。

そんなものは社会のコンセンサスが得られるわけはありませんし、高齢者(その言論で切り捨てられる人たち)も声を上げるでしょう。*2

だからそれらは今すぐに高齢者を社会から排除する社会的合意を得ようという目的ではないはずです。

ではそれ以外の目的は何なのか。

私は、それらが自己責任や生産性に強く囚われた世代に対する呪いの言葉なのだと思います。

簡単に言えば、安楽死尊厳死を法制化し、それが実現された社会で、今の現役世代以下が安楽死尊厳死を選ぶように仕向ける為の呪いの言葉であり、その自死を選択をする人のその選択を身近な人たちが無批判に支持するよう仕向ける為の呪いの言葉です。

ちょっと陰謀論染みてますね。というか陰謀論であって欲しい陰謀論です。

ちなみに集団自決といったような先鋭的な言論は、この計画の第2段階、第3段階だと思います。もちろんそれ以前の段階というのは、自己責任の強化や自分の子供や他人に迷惑をかけたくないといった考え方の強化、生産性による人の評価などです。

例えば迷惑をかけたくないという考え方は、ピンピンコロリや長寿=リスクといった言葉・広告によって強化されていったのではないでしょうか。これらは人間の感情を上手く利用してするりと人の中に入り込んでいく言葉のように感じられます。

 

そしてこれと関わるキーワードとして「ケア」があげられると思います。

さて、ここからは、優生思想的な言論に共感してしまう受信者側の感情の部分の話です。いや、同じような感情は発信者も抱えていると私は考えます。

さてエリク・H・エリクソンという人がいます。アイデンティティという言葉を生んだ人です。エリクソンの論に年齢によって人の発達段階を8つに区分するというものがあります。この考え方によると大人になっても老人になっても発達の課題というものがあります。

ちょっと今は読み直す余裕がないのでWikipediaから引きます

45歳からの64歳の中年期のVirtuesが「care」で、課題が以下です。

the primary developmental task is one of contributing to society and helping to guide future generations.

その具体的課題から今回のテーマに合いそうなものを抜き出すと以下になります

  • Express love through more than sexual contacts.
  • Relinquish central role in lives of grown children.
  • Accept children's mates and friends.
  • Reverse roles with aging parents.

が上げられるでしょうか。

以上を踏まえて、この世代は「自分の子供や身近な次世代を育てるケアの経験」や「ケアをしてくれていた両親をケアする立場になるという経験」などを通じて、自分をケアしてくれるだろう人たちへの信頼をつかみ取っていき、また、自分がケアされる側になるということを受け入れる準備をしていくのだと思います。

逆に言えば、そのような経験を通じて、ケアという行為につきまとう課題を克服できなければ、自分がケアされる側になったときに対するポジティブなイメージが持てないということです。

そしてまた、将来ケアされるということは今の自分ができていることが出来なくなるということです。30代、40代にもなれば多少の能力減退は誰でも感じると思いますが、自分自身の自立、自律を脅かすディスアビリティの予感ともこの世代は向き合わなくてはいけません。

ケアに対するポジティブなイメージを持てることは、自分自身のディスアビリティと向き合う上でも重要だということです。*3

しかし現実にあるのは、自己責任、他人に迷惑をかけるのは(極論すれば)悪、生産性による人の評価等々です。

そんな社会で、未来で何かしらのディスアビリティに至った自分を喜んで世話をしてくれる人がいると信じられるでしょうか。その期待を持てるでしょうか。

その隙間の空いた心に、老害や集団自決(安楽死尊厳死の法制化)といった言葉がするりと入り込んでいるように思えるのです。死の自己決定権の為の安楽死尊厳死の法が、よからぬ権力者、よからぬ社会の元では、優生思想実現の道具に利用されるというような想像力に欠けたまま……。

そして、そういう人たちに「優生思想!」って言葉は、批判は届くのでしょうか。

私は加齢によるディスアビリティやケアされることの受容だったり、生産性など関係なく自分が大切にされてケアをしてくれる人がいるという社会への信頼の回復も又、重要なことだと思います。

発信者についても、本気で社会の為なんて考えているというよりも、結局そういうことに向き合えない結果として、自己正当化できたつもりになれる理屈に逃げている人も多いのだと思います。*4

 

まとめ。

中年期の課題に向き合わず、優生思想や老害などといった言葉を振りかざし、中年期に相応しい成長を遂げられない人間は、老齢期の成長の土台を獲得できませんし、そもそも老齢期に相応しい老人になれません。それは、彼らの言葉を借りれば、今のままでは彼ら自身には老害となる未来しかないということです。

 

最後に、優生思想についてもう一つの視点も提示だけしておきます。

それは

「社会の綺麗事」と「その社会の綺麗事に共感してそうなりたい理想の自分」と「自己責任や生産性重視といった価値観に影響を受けて、そういう偏った視点の考えが頭をよぎる現実の自分」のギャップ

です。

例えば、相模原障害者施設殺傷事件の犯人については優生思想という観点で語る以外に、施設の職員がなぜ闇落ちしたのかという視点で語ることがもっと必要だと思います。あまり書きたくはないのですが、私はこの犯人もまた優生思想は社会の為ではなく自己の為、自己正当化の道具だったのではないかという気がします。

この犯人がどうかは知りませんが、自分自身の話としては、ポリコレの強すぎる社会などは、理想の自己像は高僧のような高みに達し、現実の自分とは大きくかけ離れ、にもかかわらず自己と理想のギャップの苦悩を表現できない世の中になっていると思います。

 

追伸

世の中、自己正当化に溢れています。リベラルにも左派にも。

リベラル・左派の中にはその運動を通じて現実の自分を省みずに理想の自分を肥大化させている人たちがいます。翻ってそれは人間不在の理屈に固執したり、多様な価値観を受容できないことにも繋がりますが、それはまた別の機会に。

*1:もちろんそれとは別に真に受ける子供・幼稚な人間もいるでしょうし、それをどうするかという問題はありますが、それはまあ多く語られていますし、ここでは問題にしません。

*2:コロナ禍の高齢者を見殺しにしつつ、シルバーデモクラシーとか報道されて声が上がらない昨今の状況では不安はありますが、話が進まないのでそういうことにして下さい。

*3:逆に、自分自身のディスアビリティと向き合い始めた結果としてケアにポジティブなイメージを持とうと活動し始める人もいるでしょうが。

*4:加齢と向き合えてないのですから、「老害って自分だって年を取るだろう」というような批判者の問に対してもまともな回答は持ち得ないのです。