sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

コロナ禍の民主主義

結果として民主主義は一時的な危機に対してすらも社会民主的な政策で乗り切る覚悟を示せなかった。新たな疫病禍が起こっても同じ過ちを繰り返すのだろう。どこまでの死亡率がただの風邪になるんだろう。

気候変動などの他の危機に対してもそうなんだろう。優生思想を垂れ流すマスコミが先導するSDGsというのは単なる資本主義社会の免罪符システムなのだろう。全く「全ての人」が主語になっているとは思えない。

子供の為という言葉は今の大人の為に利用されるばかりで、今の子供の為も今の子供が成長した未来の為も一顧だにされてない。

SDGsなんて足るを知らないと無理だろう。しかし現実の社会は足るどころかむしろ飢えている。政治批判も炎上も陰謀論も表現狩りも反差別やペットの偽善ごっこも本来の目的は失われて満たされない自己を満たすためにばかり使われている。あの飢えは生産性で人を測る人たちが自分の価値を高く偽る為に罹る呪いなのかもしれない。

そういえば、

努力した自分は救われるべき、価値のある人間は救われるべき↔努力してない人間は切り捨てられるべき(自己責任)、価値のない人間は切り捨てられるべき

こういう図式も以前よりあからさまに見えるようになった。健康も才能も偶々そう生まれたって運だと思うんだけど。宝くじに当たったことを誇って、当たらなかった人を見下している。

そうだ。ボクが共産主義が成立しないと思っているのは、結局、人がこういう風な自分主体の感情から発する結論とそれを正当化する理屈からは逃れられないと思っているからだ。

もちろんやろうとすればできないことはないけど、それがどういう国家、社会になるのかは、既存の共産主義国家が示している。結局あれは共産主義システムを人間社会で運用するにはああならざるを得ないのだ。

人類がアップグレードかダウングレードかわからないかされて、大多数が足るを知れるくらい豊かになって、足るを知る人が多数にならないと共産主義は無理だろう。しかしそのような取り組みは日本共産党にもその支持者にも見られない。彼らも又飢えていて独善の沼に嵌まっている。