sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

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ツイッターは辞めたので、おもしろいツイートを拝借してちょっとここで書くシリーズ。ボクの反応が元ツイに対してネガティブだとしても、元ツイ自体を興味深いものとして捉えているので。念の為。

 

 

これは、マスコミやそれが重宝しているコメンテーターの視点もそう。

もうちょっと広く捉えたら、個のことより社会全体を考えることの方が頭が良いみたいなのもあるね。

しかしこぞって、その社会全体っていうのが社会全体というより財政再建、主観的で感情的な税の適正使用に偏ってるんだよね。そして、切り捨てられるところ探し、切り捨てる屁理屈探しに堕し、権益を持つ個、組織に利益を与える、社会全体には不利益を与える結果になってしまっている。

 

別のツイートにあった、冷徹なオレというのも結局は「自分の利益というバイアス」のかかった主観的な合理性によって弱者を切り捨ててるだけなんだよね。冷徹な決断する必要のないものに対して自分の為→それを覆い隠すための大きい主語化としての社会の為に冷徹な決断を下すって単なる人でなしなんだけどね。

そして、まあでも誰でも自分の負担はイヤなので、そして大人はその負担が生じる予感にすら敏感なので、そこに直近には自分の利益にはならずに逆に自分に負担が生じる予感がする問題があって、それをトロッコ問題化して解決してくれる冷徹なオレたちがいるならこう表だって支持もしないけど絶対に止めないみたいな態度を取っても不思議はないよねと言う。

 

 

元ツイが削除されてしまったので、別のツイートの引用に変更。

オミクロン禍の超初期2022年の1月「オミクロンは死者数1万人、死亡率0.1%のインフルエンザ並」って論が流れたときには、社会に死生観と問い直す問題だと提起している人たちはすでにいた。

そしてその論に対して、「インフルエンザって年間1万人も死んでたの?それってもっと感染拡大を防ぐべきだったのでは?」とならず、むしろ「インフルエンザ並ならコロナ禍前に戻して経済を回さなきゃね」という雰囲気が醸成されていった。

結局、社会は死生観を問い直すような問題に対して、主に偏った政治、報道、SNSによって与えられた情報によるインフルエンザとコロナのリスクに関する誤認によって流されて答えを出してしまったんだよね。

「他人の死」に無関心というか、それをむしろ積極的に正当化していたのがコロナ明けだったと思うのだけれど。

そしてこの答えの過ちを正すには、被害者の存在に向き合わないといけないけど、それに社会は向き合えるのかなとはずっと思ってる。

向き合えないならコロナ禍明けの選択に矛盾しないように興味のない「他人の死」というものは多数派の暴力で無視し続けるのは一つの道ではある。

反ワクや感染拡大防止策は何をやっても無駄といった形でコロナ以外の別のものに責任転嫁して向き合う事から逃げている人たちもいるけどね。

 

 

ボクはコロナ禍明けこそがそれだと思ってるし、国家行政だけではなく、報道も新自由主義者たちも(行政や報道、企業、広告業界の中の人にもたくさんいるよ?)薄情だと思っていて、そういう微妙な認識の違いは多いけど、似たような事は考えている。

そういう社会の薄情さに関しては、財政再建とその為の方便としての自己責任論の罪ってのは重いと思ってる。まあボクも一瞬は自己責任論者だったんだけど。

自己責任論者だったから言い訳するわけではないんだけれど、自己責任論というのは例えば「他人に迷惑をかけたくない」という市民の心理が上手く利用されてる。

そして、「他人に迷惑をかけたくない」という心理は例えば、葬式で子供に迷惑をかけたくないというような保険のCMでも強化される。そういうCM以外にも報道バラエティ、ドラマ、漫画、SNS……社会は自己責任論を強化するようなナラティブで溢れている。リベラル、左派自体が加担している場合すらあるだろう。

リベラル、左派は政治や報道などに注目しがちだけど、それらと密接に関わっている現在の社会に潜在や通底している価値観を把握し、広告等に込められている「特に抽象化されたメッセージ」により現在の社会の価値観の何が強化され、何が弱化されるのかということに対して、もっと敏感にもっと想像力を働かせないとダメだと思う。

例えば、学校の脱マスクにおける『笑顔キャンペーン』とかがその事例だろう。社会の人たちはそのメッセージに具体的な子供の笑顔ではなくて、『それぞれの』自分の学生時代の笑顔になった出来事を重ねている。そうして同じような喜びを子供に与えたいと考えるように誘導されている。仮にそれに対する共感のない、笑顔を腐すようなキャンペーンをリベラル、左派が行えばどうなるかは明らかだろう。

 

さて。今の社会の価値観というものは、「他人に迷惑をかけたくない」「他人を思いやる」とそれとは正反対のエゴイズムがかなり偏って歪んだ形で実装されてしまっている。マスコミ、企業主導の恣意的なSDGsなんかはその典型だと思う。

そして今、また新たに次の社会を形作るかもしれないCMも流れている。ボクが気になるのは「幸せの形に正解がない時代」という某CMだ。多様性という観点で正しいように思えるかもしれないけど、社会が薄情な方に流れるのであればこの言葉はそれに都合の良いようにも使えるだろう。例えば、個人の安楽死という決断を受け入れるのにだって使おうと思えば使える言葉でしょ?

資本主義社会の歪みと対峙する最後のチャンスは民主党政権だったのは確かだろうけれど、それは震災というよりも、そのときに財政再建至上主義や新自由主義から脱却できるかどうかだっただろう。とはいえ、世界的な潮流を考えれば、それを民主党の責任とするのは酷かもしれない。

ちなみに民主党政権の「埋蔵金!→思ったほど全然なかった」と「事業仕分け!」はその後の国民の財政再建に対する意識に対して大きな影響を与えた、社会の薄情化に大きな影響を与えたと思ってる。

もう削るしかないよね、どこを削ろうか、私が削られるのはおかしい、削る理由がある人たちだよね(自己責任論の拡大)という。

あ、原発関係の陰謀論染みた話には共感してないので。情報の出し方に結論ありきなのは常に感じるけどね。今は安全神話との絡みとして理解してる。