sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

バイアス、ナラティブ

認知心理学絡みの本を読んだりしていると、バイアスやナラティブと戦うって表現を見かけるんですけど、それって人に「世界を、社会を、人間を理解するためのフレームワークを捨てて思考しろ」と言っているのと同じだと思うんですよね。

私はそんな労多くして功少なしのことはやりたくないですし、他人にやらせたいとも思わないです。そもそもそれって可能なのでしょうか。

もっと現実的な手段として、自分が理想とするようなナラティブに共感し、その共感をバイアスとして思考してくれる人を増やした方が良いように思います。

自分が理想とするようなナラティブを広める方法は難しいのですが。

例えば「物より思い出」。資本主義の企業が自社のイメージアップ戦略の為に用いているナラティブの中にもカウンターとして使えるものはあると思います。今ならSDGsでしょうか。「全ての人」という理念を見ないふりして弱者切り捨てを容認し、再利用なんて枝葉の部分ばかりを強調してますが、その欺瞞は利用できると思います。

ちなみにグレタさんがやってることはグレタさんに対するネガティブなナラティブもそれなりに生んでいるので良い方法とは思いません。ただあの視点は広めるべきしてんだとは思います。

バイアスについては、今のリベラル、左派を見ればわかるように、やはり自分自身の思考の土台、自分自身の価値観、自分自身の偏りというものを理解していなければ、全ての人権を重んじるというようなナラティブを元にしたバイアスを持っていたとしても、暴走してしまうことは明らかだと思います。

ただそのナラティブやバイアスを単に否定するのではなく、存在を自覚して共存してよい関係を築いた方が良いと思います。バイアスで思考する主ルーチンとは別に客観的な自分監視系を走らせるということです。そして、問題はその自分監視系をどうつくるのかという事だと思います。