sozinkouのブログ

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トランスジェンダーのトイレ

ここではMtFの話に限定します。

私は基本的にはトランスジェーンダーのトイレや更衣室は肉体の性で分ける派です。まあ彼らからしたら差別主義者でしょうが。

肉体の性より心の性を重視して、トランスジェンダーの利用設備の選択権を認めること自体は否定しませんが、残念ながら心の性というのは簡単に可視化できませんし、そこにトランスジェンダーではない異物が混じって排除できない可能性というのは否定できないと思います。

ペニスがあって生殖能力があるトランスジェンダーの女性トイレの利用を認めると、ペニスがあって生殖能力がある偽トランスジェンダーも女性トイレに入れると言うことになります。

私はこのことに一部の女性が恐怖心を持つのは当然のことだと思いますし、その感情を軽視したいとも思いません。私の知っている女性の中にも、例えば、男性の少し大きな声などに恐怖して身を竦ませる人がいました。

私は「差別!」というMtFの人たちの中には、心の性が女性だと言いながら、女性のような小柄な体型や腕力の人たちの男性に対する恐怖心への共感に欠けている人がいると思います。

さて先に心の性は簡単には可視化できないと書きました。しかし、可視化が全く難しいパブリックな空間と学校、職場のような人間関係に基づいて、その可視化が可能な空間とは分けて考えるべきだとは思います。「肉体の性ではなく心の性こそこの人の性だ」という信頼を得たら良いわけです。

その信頼を得る過渡期のトランスジェンダー心理的負担の軽減策として、施設内のだれでもトイレのようなものもまた必要でしょう。

人間関係が築ける場において、その人にレッテルを貼って、その人自身の真の姿を見ないことは、私は差別だと思います。そして、差別される側がレッテルによって見られることによって人間関係から阻害されることは社会にとって損失です。差別する人間が狭い価値観を社会に押しつけずにその価値観の相応しい狭い世界で生きるほうがよほど社会にとっての損失は少なくなります。

 

体が女性で心の性が男性のFtMの男性トイレの利用はトイレを利用する男性ではなく、FtM自身の身の安全の問題をより多分に含むと思いますので、彼らの考えに譲ります。

 

最後にこのエントリーとは直接的な繋がりはないのですが、一つかなり差別的なことを言います。ただこれは一部のトランスジェンダーの言動を読み解く上で必要があると思います。

MtFで、心の性=女性で、性的対象が女性、要するに、肉体の性でみれば異性愛者、心の性でみれば同性愛者という人たちの価値観はどうしても歪んでしまいがちです。

ま、私自身のコトなんですけどw

私は女性対して性的感情を持ってしまうからこそ、自分が肉体は男性、心のは女性の状態で、女性の輪の中に入ることに対しては強い拒絶感があります。諦めましたけど性転換がしたいです。

このエントリーはその心理の表れであり、それでも同朋の心の性を認めてあげたい妥協点の部分もあります。

しかし肉体の性にも拘りがあるがある場合は、性転換のような解決策をとれません。この場合、理屈を並べて自分の有り様を正当化し、社会に受け入れさせようとするしかありません。

いや、彼女らの理性や人間性を信頼するなら、その正当化自体は全うです。問題なのは、心の性を重視することに含まれる問題の提起に対して、アイデンティティの問題であることも相俟って、柔軟性を失って自分たちの価値観をゴリ押ししていることです。強力なバイアスがかかっている状態以外では理解不能になっている結論ありきのおかしな論、おかしな反論で溢れています。そのようなものは同じトランスジェンダーでも異なる価値観の持ち主すら大切に出来ていません。というかむしろ攻撃して傷つけています。

いや、もっと言えば当事者はそれでもしかたない部分はあると思います。しかし当事者でもない支援者、トランスジェンダー差別反対運動家がそうなるのは理解不能です。まあゲスの勘ぐりをすれば、トランスジェンダーを自身の何かしらの欲求を満たす道具にしているのでしょう。

 

あと、心の性がアイデンティティなら、性別をどのように分けるかも科学ではなくてアイデンティティの問題だと思います。科学的に色んな区分があっても、そのどのレベルの区分を選択するのかは個人の価値観です。

そこで生活に一番近いレベルである、肉体の性に拘るのは間違いとは思いません。

ただそれは個人の価値観の話であって、社会の価値観は別に存在して良いと思いますし、社会ではもっと心の性が大切にされても良いとも思います。

その妥協点はどこなのかという答えは私は出せていません。とりあえず職場や学校で心の性が大切にされる状況にならないと見えてこないなと思っています。逆に言えば、そうなることを私は望んでいるということです。