感染予防の為には○○が必要に対しては、お気持ち表明というレッテルを貼って、科学的エビデンスを求める。
経済を回すためには緩和をする時には、科学的エビデンスを無視して、お気持ちを表明する。
こんな感じで、コロナ禍の維新を見ていて気付いたのは、「印象操作と批難するものは印象操作を利用している」「チェリーピッキングと批難するものはチェリーピッキングを利用している」等々……ということ。維新に限らず。
自分がやっているからこそ、脊髄反射的にそういうバイアスの元で現象を読み解こうとして、自分がやっているからこそそういう結論に至ってしまうのだろう。
でもこんな風にいうとチェリーピッキングや印象操作を指摘できなくなってしまう。
なんとかならないかと考えた結果、こういう人たちがチェリーピッキングや印象操作という言葉を振りかざしているときには、その概念を自分に都合良く拡大している場合が多いということに気付いた。ここまでセットで指摘をするしかない。
そういう言葉の概念を恣意的に拡大して振りかざしてしまうとブーメランになるので注意。最低限、拡大しているときは拡大しているとそう前置きをして語るべし。
あ、コレと似たパターンとして「エコーチェンバー」というのもは、自らもエコーチェンバー現象に嵌まっているというのもある。この点に於いては、リベラル、左派の方も相当に酷い。運動に熱心な人たちの先鋭化(主張や理屈からの生活感や人間性の喪失)&支持喪失の原因の1つと思う。