sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

財源足りてない感

優生思想や姥捨て山SDGsというのは、自分が切り捨てたい対象を切り捨てることを、言い換えれば意図的な切り捨てを、その結論ありきで正当化する屁理屈です。

その動機は多くの場合、財源の足りてない感だと考えます。動機もないのに敢えて誰かを切り捨てる必要はありませんし、誰かを切り捨てようと訴える必要もありませんから。財源の足りてない感以外だと生産性で人の価値を判断するという呪いもあるかもしれません。凝り固まってしまって自分のアイデンティティも完全にそれに依存してしまっていて、もうそのフレームワークでしか思考が出来ないのです。

だから誰かを切り捨てるような論を唱える人たちは本当にトロッコ問題にする必要があるのかというメタな問について真剣に考えない、もっと酷ければ積極的に見ない振りをして、どこを切り捨てるかから思考を始めています。

こういうと財源が足りない根拠は示しているというような反論があるかもしれませんが、仮に財源が足りないと仮定して思考を組み立てるにしても、なんとか誰かを切り捨てないで済む方法はないのか、トロッコ問題化しないで済む方法はないのかと考えることは可能です。

もっと言えば、これは敢えて考えないようにしているのではないかと思います。それは切り捨てないで済む道、トロッコ問題にしないで済む道というのが、切り捨ててトロッコ問題化するよりも茨の道で、自分の負担も大きい……と直感的にわかるからです。

痛みがどうたらこうたら言うのならまずはここを考えることを放棄するべきではありません。安易に問題をトロッコ問題化して語られる論というのは、自分の痛みを避けたいという結論を最優先にする感情に支配された論です。そして又その感情を優先するあまりに人として最低限の倫理観まで喪失してしまっています。

そういった論には合理性も論理性も全くありません。百歩譲ってせいぜい自分の痛みを避けたいというような前提でのみ成立する客観性を欠いた主観的で人倫にも欠いた合理性や論理性に過ぎません。