sozinkouのブログ

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愚かさの表明

ツイッターのシャドウバンに嫌気がさして戻ってきました。といってもここなんてほぼアクセスゼロでツイッターの方がマシなんですけどね。

 

為末大氏 コロナ影響で自殺者8000人増に危機感「大変深刻」「20代が最多」(東スポWeb) - Yahoo!ニュース

私たちの社会は病気による死や事故による死は警戒し責任を感じますが、経済的に苦しい人を死に追いやることに関しては冷淡な時があります。

死は本人の選択のように見えているだけで、社会が追い込んだ側面があることを我々は認識するべきだと思います。

コロナ対策とは誰の命を優先し誰の命を犠牲にすることを選ぶのか、ということです。

確かに経済的に苦しい人間を死に追いやることの責任の一端は社会にもあるでしょう。しかし経済的に苦しい人間とコロナ対策は両立します。両立させるべきです。

果たしてこの人は、まずはその両立させることを客観的に真剣に考え、無理だから命の選別をするしかないという結論に至ったのでしょうか。

私はそうは思いません。

命の選別とは不快です。だから極力避ける方向で思考します。そうしたらなんとか両立する方法はないのか、あるはずだとなるのです。そして、実際にあるはずです。

そうならないということは、命の選別を避けようとしていないのです。

なぜ避けないのか。

まず感情的な人にはできない命の選別という客観的な思考ができる自分に酔っている可能性が考えられます。人にできないことができる人をなんと呼ぶか知ってますか?鬼です。心を鬼にして正しい事をでもしてるつもりですか?心を鬼にする前に両方を助ける方法をもっと真剣に考えなさい。

しかし、両立させるというのは、選別するよりも痛みが伴うことでしょう。その痛みの予感という深層の意識が思考に影響を与えて、痛みを避ける結論を選択し、その結論に沿って理屈を組み立てているという事も考えられます。まあそういうのって餓鬼だと思いますが、それに向き合うのは大人でも大変ですよね。

もっと悪い場合、元々の思考の土台に優生思想的なものがあることが考えられます。こうなるともう両立という道があることにすら気がつけません。もともと二択じゃなく一択なんですから。切り捨てて良いと思っている対象を切り捨てられるチャンスとすら考えるかもしれません。たまにヤフコメなどにはいます。

さて改めて。

命の選別というのは結論を出せているようですが、本来しっかり考えれば出さなくて済む浅はかな結論を出しているだけです。それだけでも愚かですが、命というとても大切でとても慎重に考えなければいけないものをそうできずに、その浅はかさを得意げに披露することは見ているこちらが恥ずかしくなるくらい愚かです。そしてその結論を支持するのも同様に愚かです。

もっとはっきり言えば、経済ってのは多くの大人にとって屁理屈の言い訳です。自分のリスクは低いから、リスクの高い人の命や健康など切り捨てて、我慢せずに自分のやりたいようにやりたいっていうのを覆い隠すための。しかしあなたが何万人もの日本人の命を切り捨てたという事実は変わりません。大切に思う高齢者がいないのも無敵の人なんだね。

ワクチンや治療薬でもまだ限界がある状況で、感染者、死者を減らす努力もせずに、その努力を全く放棄して、多くの死を受容して、むしろ人を切り捨てることを考えはじめるのは間違っています。

私は子供の頃の交通戦争と比較します。子供の頃、社会は1万人の交通事故死者を受容していませんでした。悲劇だと思っていました。だから減らす努力をしました。今でもし続けています。ゼロコロナを揶揄する人はたくさんいますが、ゼロ交通事故死者なんて無理だ!とは言わないでしょう?