sozinkouのブログ

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自己責任論と姥捨て山はSDGsではありませんの話

自己責任論というのは感情論だと私は思っています。

「感情では切り捨てたいけど助けなきゃね」となるなら感情と実際に取る行動を切り離すための論でしょうが、感情に基づいて切り捨てたい人間と助けるべき人間を恣意的に分けてそれを正当化するための言葉が自己責任ですから。私は前者を自己責任論、後者は自業自得論とでも呼ぶべきだと思います。

 

さて、話は変わりまして、またsnowさんのツイートを使わせていただきます。

 

snow on Twitter: "私に言わせれば、人命軽視をおおっぴらに肯定しちゃったのが現在の新型コロナ対策なんですよね。" / Twitter

 

同意見なのですが、私としては「人間を個々の存在として見ずに人命軽視する価値観の元々持っていた人間が、その価値観に基づいた新型コロナ対策を行おうとしているのが現在なんですよね」とさらにそのような論を掲げる人を悪く理解したいと思います。そしてこの認識の違いがさらに以下の違いを生みます

 

snow on Twitter: "7/7 左派リベラル派で風邪派の社会学者さんらは、頑張って科学っぽい理屈に飛びついたりせずまず憲法を盾に政策が間違っていると主張すべきでしょう。風邪派の言ってるのは、自身が追い詰められた結果かもしれませんが究極的には自己責任論でしかなく、社会の否定なんですから https://t.co/uAa1naPjEN" / Twitter

 

左派リベラル派の風邪派の人は、資本主義や自己責任論を土台にした思考をしてるんです。よくわからない言葉を無理矢理使えばリベラリズムじゃなくてリバタリアニズムの人たちなんです。だから「究極的には自己責任論でしかなく」ではなく、自己責任論はアイデンティティの一部なんですよ。そういう人たちに憲法を楯に政策が間違ってると主張しても、憲法25条の「文化的な生活」の定義を持ち出すだけでしょうし、悪くすればその定義をsnowさんが望むのとは逆方向に変えようとするかもしれません。政策が間違っていたと考えるとしたら「自由を奪った」を出発点にしたものとなるでしょう。

 

ではどうすればいいのかってのは私はわかりませんが、ただ例えば、SDGsなどの綺麗事(その目標の字義的には憲法25条との親和性も高く)は一部の人を切り捨てる価値観とは完全に相容れないものですから、報道ではなく広報と化したマスコミの歪んだSDGsの矛盾を突いて、まずはマスコミを正常化させるしかない、あるいは影響力のあるまともなマスコミをつくるしかないのではないかとか考えています。

 

あともの凄く蛇足ですが、コロナが中国の陰謀なら中国はその対策も理解していたはずで、中国の対策をマネすることこそが正解だったはずです。まあでも実際の話として、西側諸国は中国に感染症対策における弱点とそれを今後も克服できないだろうことを晒してしまったかもしれませんね。

もう一つ蛇足ですが、最近の理屈の多くは結論ありきです。理屈を積みあげて結論に至ろうとする人間には理解できません。ああこの結論に至るのにそういう論を用いますか……と理解すべきです。

ちなみに結論ありきか否かを見抜く一つの方法は、例えば「科学的エビデンスを出しなさい」と言っていた人が後々成果として登場したエビデンスに基づいて過ちを認め、提言を修正できるか否かです。まあこれ自体は結果論と言うことになりますが、その人の他の論の正当性を図る一つの目安にはなります。結論ありきの屁理屈野郎はずっと結論ありきの屁理屈野郎ってことです。