sozinkouのブログ

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新自由主義

 

岸田内閣、今の自民党新自由主義から脱却できるとは思えません。というかたぶん立憲民主党もしばらくは新自由主義からの脱却は無理でしょう。なんていうんでしょう、もう新自由主義的な価値観が思考の土台になっちゃってて、思考のバイアスとして機能しちゃってる人がリベラルと言われる人たちにもたくさんいるんですよね。

例えば、リベラルにも費用対効果って言葉をやたらと振り回したり、医療や福祉をコストと表現する人を見かけました。

しかし、経済を回す或いは経済効果という言葉と無駄遣いという言葉で分けてるものって論理でも何でもなく感情なんですよね。医療や福祉でも経済は回し、経済効果を生む制度設計は可能でしょう。じゃあなぜそれを選択せずに別の経済効果や経済を回す方法を選択し、医療や福祉がコストとなる制度設計をするのか……そこに絶対的な論理なんてものは存在しません。その選択をメタ的に見れば、自分の利益(欲という感情)に行き着くでしょう。

リベラルの人たちにはその認知の歪みを自覚して修正して欲しいものですが、それは容易ではありません。まず思考のベースの部分を新自由主義な価値観に犯されていますから、そのバイアスを疑うことが困難ですし、自分をいくら疑ってもそのバイアスを認知することは困難です。ある程度の柔軟性を持つ人なら外部から論理的に指摘されればその認知の歪みを把握できて、表面上(一時的に)はその指摘に応じて自説を修正することも可能でしょうが、自分で物事を考えるときにはやはりそのバイアスの影響が顔を出してしまいます。何度もその経験を重ねていけば、少しずつ論理の構成の過程で自身の認知の歪みに気づき、徐々にその影響から抜け出していけるでしょう。

しかしそれも論理一辺倒の人では無理かもしれません。結局、一人一人の人間を見ないと、命や健康を損なう人への共感を失うと、自分の論理が一部の人を不幸にする事への葛藤も喪失して、多数の幸福の論理に傾倒しちゃうんだと思います。しかし共感ってリベラルの一部に決定的に欠けてる要素でもあるんですよね。

政権批判ではなくリベラル批判になってしまいました。まず最初に新自由主義からの脱却が必要なのはリベラル系のマスコミでしょう。コロナ禍において、マスコミ報道姿勢はリベラル系ですら病的なまでに経済優先と綺麗事で分裂していました。私としてはもうその矛盾が生理的に気持ち悪すぎて報道が見られないレベルに達しています。例えば新型コロナ禍の報道姿勢とSDGsの3「すべての人に健康と福祉を」は完全に矛盾してると思います。

現状においても、12歳未満の子供に対するワクチン接種は進んでおらず、子供はワクチンによって守られていない状態です。そもそも新しい技術で長期的な影響に関してはわからない部分もあるmRNAワクチンを子供が受けなくてもよい国内感染状況にすることが、「すべての人に健康と福祉を」だと考えます。子供は重症化する率自体は低いですから、社会が経済を優先しすぎずにしっかりとした蔓延防止策を取れば、ワクチンの副反応の確率より新型コロナに罹って重症化する確率の方を低く、mRNAワクチンを接種する必要性の低い状態に出来るはずです。

蛇足ですが、私は幼児教育というのは児童福祉を構成する概念であって、児童の福祉を軽視した幼児教育というのは本末が転倒していると思います。もちろん幼児教育の欠けた児童福祉もまた存在しません。難しい状況の中で、児童の健康を守り福祉を提供する中でどのように十分な幼児教育を提供するかを考えるのが大人の仕事です。今まで通りの幼児教育の提供ありきで考えては決していけません。そこに気づけなかったのがコロナ禍の大人の罪です。