sozinkouのブログ

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リベラルが勘違いしてること

五輪開催反対は、自分や大切な人の健康や命が脅かされるからなんですよね。五輪の理念ややりすぎ商業五輪などはどうでも良いんです。商業五輪と開催強行自体は関係あるでしょうし、批判をそこに絞るならまだしも、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い感丸出しで批判を発散させすぎです。いや、そこまで批判する気ないし……って人は醒めます。距離を置きます。

 

夫婦別姓に賛成してる人の多くは、夫婦同姓という価値観に対する批判はしていません。というか、そもそも夫婦別姓に賛成してる人たちでも、同姓を選択する人も多いはずです。夫婦別姓をやりたい人はやればいいと思っているだけなんです。

問題は夫婦同姓という価値観を押しつける事で、夫婦同姓という価値観そのものではありません。にも関わらず、夫婦別姓派は、夫婦別姓制度ではなく選択的夫婦別姓制度だと言いながら、夫婦同姓を多様性として認められず、同姓を名乗る事による絆を批判したり、同姓を古い価値観だと腐すような人間を中に含みすぎなんです。

そういう人たちは「自分たちは夫婦同姓という価値観の持ち主だけど、夫婦別姓という価値観もあっていいよね」という選択的夫婦別姓制度の賛成派と比べて、どこまでも多様性に関して劣っています。

夫婦同姓という価値観を選択する人間としては、その価値観自体を攻撃されて破壊される予感がすれば、それを守る方を選択します。

 

男女平等と言っている人の多くは、男女の性差や性役割自体を完全には否定していません。もちろん男女が対等に扱われる場面で女性が不当に扱われている事に関して、その差別を解消すべきだと思う人は多いでしょうし、一人一人の人間の個性を見ずに「これが男性の役割」「これが女性の役割」と押しつけてはいけないと思う人は多いでしょう。しかしそれは個人の中に男性の役割、女性の役割という線引きがあることを否定しません。

例えば、もの凄く単純化すれば、男性にとって女性、女性にとって男性には、(異性愛者であれば)異性という役割があります。それは同性には完全には担えないものですし、その異性観は性役割観に影響を及ぼすはずです。

逆に、女性にとって女性は女性独自の(生理や妊娠や出産など)大きい経験、強い経験をした、するだろう同性という仲間ですし、男性にとって男性は女性独自の経験をしえない仲間です。それは異性には完全には担えないものですし、これもまた性役割観に影響を及ぼすはずです。

また妊娠して子供を産むというような独自の経験を想像できる人生というものは、男性とは異なる価値観を得る可能性に満ちていると思います。

行き過ぎた男女平等思想というものは、そのような女性独自の経験というもの、そこから生じる女性ならではの価値観というものを軽視しています。

女性はだれしも妊娠や出産すべきとかそういう経験をした女性が誰しもがそのような価値観に至る(べき)という話ではありません。例えば、女性独自の経験から子供と女性に男性とは異なる繋がりを感じる女性の価値観を否定してはいけないという話です。

 

そもそも女性が社会に出て輝くという価値観は、既存の男性社会を過大評価した価値観だと思います。これは女性が社会に出ることを否定するものではありません。家事や育児、介護、自分が何かを社会で成し遂げるではなく、誰かが何かを社会で成し遂げる為に必要な支援を行う事は、たとえそれが直接社会に関わるものではなくても、間接的に社会と関わっていますし、価値があると言うことです。それを認めずにどうして保育士や介護士の待遇を向上させることが出来るのでしょうか。保育士や介護士はその技術だけではなく、誰しもがその人なりに伸び伸びと生きられるように環境を提供している事自体に価値があるのです。

また話は逸れますが、例えば、保育所に預けられている子供は直接社会に関わっていませんが、そのことで両親は働きにでて社会で活躍できますし、またその存在自体が両親に生きがいを、社会で活躍するモチベーションを与えているとも言えます。子供は生きているだけで、保育所に預けられているだけで、社会に貢献して輝いています。それにたいする対価は児童福祉(の向上)だと私は思います。

最後になりますが、これは女性は家庭に入るべきという話ではありません。入りたい人は入れば良いですし、逆に男性に家庭を支えられて女性がバリバリ社会で活躍したってよいでしょう。共働きだって全然構いません。色々な人がいる。色んな生き方に価値を見いだす。それが多様性だという話です。

男女平等にしろフェミニズムにしろ多様性とはほど遠い主張が大声を張り上げているのが現状だと思います。その多様性のなさはその応援者にすら刃を突きつけています。そのことに気付かれるときがそれら運動の終焉だと私は思いますし、それは近いと思います。

男女平等にしろフェミニズムにしろ、リベラルは変な行き過ぎた理屈先行ではなく理性先行でもなく、もっと自省して自分を見つめ直し、人間というものをシステムに組み込むべきだと思います。

例えば、差別心は誰しもが持っていて、正しい理屈がわかっているリベラルだから差別心は排除できているなんて簡単なものではありません。たまたま社会で差別とされているものを差別していないだけ、あるいは自分の中の心の動きに鈍感で表面上は差別をしていないと言うだけです。また正しい理屈があれば心から簡単に排除できるというものではありません。差別心とは自分を正義の側に置いて一方的に攻撃して無くさせるものではなく、自分の中の差別心に気づいた経験、それと戦う中で得られた知識、経験といったものを分け与える事によってゆっくりと解消していくものだということです。

高所恐怖症の人に安全だという理屈を押しつけるだけではダメだということはわかるでしょう?

 

最後に。

理系のフェミニストを気取ってる男性は、自分が女性だった場合に「今の自分と同じように生きられるかどうか」を基準に男女平等を考えている人が多いように見受けられます。それって主観的でもの凄く幼稚です。その思考では女性の生き方の多様性に全く対応できないでしょう。そもそも理系の「今の自分」というのは、「女性は家庭」といった男女不平等の価値観、「女性は理系科目が苦手」といった社会にあるバイアスの結果として得られた過分な地位であって、きちんと男女平等で競争していれば、得られなかった可能性の高いものだと自覚すべきです。

 

リベラルの教義通りに生きるのは人間じゃなくて偏った善の価値観をプログラミングされたロボットでしょう。リベラルもまた別の意味で人間回帰してください。