sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

焚書

ロリコン漫画はロリコン犯罪を生んでいる!→焚書

SNSや過剰なジェンダー教育がトランスジェンダーを生んでいる……なんてそんなわけがない!→焚書

言論統制大好きだけど多様性!な人たちってだーれだ?

 

同性愛やトランスジェンダーアイデンティティのようにロリコンというのもアイデンティティだと思う。

ロリコンの性愛の対象というのはロリコン漫画を読んだ影響ではなくてもっと本能的な興奮だろう。だから自分が魅力を感じる女性の年齢が自分の年齢に応じて変化することなく、周りと違ってきたときに気付くんじゃね?と考える。

ということは、ロリコン漫画というのはロリコンを生むものではなくて、ロリコンの性的欲望を満たすものということになる。

性的欲望を満たすことによる性的欲望の解消ツール。この考え方が認められずに、逆にその表現の影響による犯罪を理由に表現を規制するなら、次はAVが規制対象になりそうに感じる。ミステリー漫画・小説だって危なそう。そんなこと言ってないと言うだろうが、そうしかねないというのがボクのリベラル、左派の人間性に関する評価だ。

だからニーメラーの警句に従って声をあげている。

まあ全く影響を受ける人がいないとはいわないが、そこからさらに犯罪にまで走る人となるとかなり少数だろう。ロリコンはその性的表現から影響を受けるよりも強く、「行為をすれば人生が終わる、下手をすれば漫画や文章などで表現をしても人生が終わる」みたいに社会から抑制的な影響を受けていると思う。そこに「パーソナルな場での被害者のいない二次元の表現の享受すら人生が終わる」というものが加わっても、性表現が性欲を解消するメリットを上回らないと思う。自分がAVがない世界で生きていたら……という想像からそう思うだけで根拠はない。

だからロリコン漫画の焚書にはNOだ。

 

そういう考え方だから、ボクはSNSの影響によるトランスジェンダーブームの被害というのには否定的な部分がある。もちろんそういう人たちもいるにはいるだろうけど、そういう人たちに焦点を当てることによって、アイデンティティが確立されたトランスジェンダーの存在を過小評価したり印象操作したりすることは差別だろうし、その差別性自体を具体的に指摘することには全く問題を感じない。

一方で、そういう人たちがいるなら、それを救うのはむしろ性自認というものに人より向き合っているトランスジェンダーだと思っている。意図せずとも決して唆すような事があってはならないと思っている。

そもそも声の大きいトランスジェンダーの主張は「性別適合手術は整形手術。個のトランスジェンダーの好みによって行うのは良いが、自分の心の性でありのままに生きられない社会のせいで性別適合手術をさせられることがあってはならない」みたいな感じだろう。

それなら性別適合手術をして後悔する少女がいるという指摘に対して、「SNSジェンダー教育の影響によって性別適合手術を受けたのではない。心の性でありのままに生きられない不寛容な社会でなければ、その少女らは性別適合手術を受けなかっただろう」みたいな文脈で批判したらいいだろう。

もちろん本の内容にも拠るけど、本の出版や販売を許さないというのは「本の内容にも拠る」という確認行為すら妨害する暴挙だと思っている。

だからトランスジェンダーになりたい少女たちの焚書にもNOだ。

 

さて、トランスジェンダーSNSとの関係には否定的だけど、ジェンダー教育とは関わっていると思う。そもそも性別に関する違和感が肉体に対するものだけではなく、社会の性別規範とも結びついているのだから、ジェンダー教育が関係していないわけがない。

トランスジェンダーは社会における広範な性別の表現と結びついている。根本の性自認の部分の部分は十分に本能的としても、当人が性別の表現、性別の役割をどこまで肯定、否定するかによってトランスジェンダーの有り様というのはかなり異なってくる。

ボクはそもそも性別という概念がしっかりと確立されていない幼児教育においてどのように性別を扱うのが良いのだろうかと考えているけど、少なくとも性別の壁に対して破壊的な今の声の大きいトランスジェンダーの価値観をジェンダー教育に取り入れるのは危険だと思っている。だから声の大きいトランスジェンダーの思想が子供に伝わっていることの子供への影響に対してもネガティブな印象を持っている。

これについて書くと長くなりすぎるだろうし、そもそもまだ纏まってないのでここでは書かない。

トランスというのは超越するという意味があるそうだが、声の大きいトランスジェンダーというのは自身が性別をトランスするのではなく、そのトランスする境界自体を破壊しようとしている。それは「トランス」ジェンダーではないと思う。

もちろん境界自体を問い直して曖昧にすべき部分というのはあると思う。例えばスカートを穿きたい男の子の心の性を見つめるなら、スカートという境界は曖昧だった方がいいと思ってる。だけど性別の境界自体を破壊して、そこに残る性別アイデンティティってなんなのだろう。それは無性別主義者だけが幸せな世界とかになるんじゃないだろうか。

 

 

最後に。

ボクはトランスジェンダーで、トランスジェンダーもののエロ同人作品というのもたまに見るけど、それらトランスジェンダー作品の影響を受けてトランスジェンダーになったわけではなく、トランスジェンダーとしての欲求を満たすために満たせる作品を探して見ているに過ぎない。

今ほどトランスジェンダーもののエロ同人作品がなかった時代は、AVの女性の方に感情移入してAVを見ていた。というか今でもトランスジェンダーの同人作品よりもそういうAVの見方をして満たすことの方が多い。AV女優さんと呼吸音を合わせるのが一体感を感じるポ・イ・ン・ト!話が逸れた。何が言いたいかというと、ある表現がなくても全然代用できるということだ。

ロリコンだって一緒だろう?わかんないけど。だから低身長貧乳のAV女優さんのAVを規制するって?

 

最後に2。

ボクは性別を何によって判断するかという基準はその人の重大なアイデンティティの1つであり、今の声の大きいトランスジェンダーというのはそのアイデンティティを毀損していると思う。

 

最後に3。

リベラル、左派は、表現の自由戦士というレッテル貼りをして、自分たちの表現規制に対する懸念の声の一部を拡大して一部を隠蔽して矮小化し、自分たちの表現規制は正当なものだと自己正当化している。

 

最後に4。

性同一性障害が病気かどうかなんてどうでもいいんだよね。ただ病気じゃないとされて性別適合手術の健康保険適用ができなくなれば、その選択肢を取るのが難しくなる人もいるって問題を解決して?って話。性別適合手術を必要としないトランスジェンダーの「病気じゃない!」「個性だ!」ってアイデンティティを満たす為に救われない当事者を増やす言葉遊びって意味はあるん?社会を変えれば性別適合手術のニーズはなくなる(性別適合手術の健康保険適用がなくても大丈夫、大丈夫)みたいな偏見はやめてくれる?