民主主義という枠組みの中でも共産主義的な政策は取れます。
例えば福祉とか災害時の支援などは資本主義的ではなく共産主義的な政策です。
市民がそれを必要だと感じれば共産主義的な政策だって実現されるわけです。
しかしそれには限界があるというのは、偽りのポストコロナ禍(コロナの感染拡大放置禍)で感じました。
主に2点。
その1。例えば、屋内の公的な場所でマスクをするのような負担の少ない、信号を守りましょう程度のことすらニューノーマル化できないというように、資本主義的な消費優先、エゴ優先が染みついていて、共産主義的な痛みは犠牲者が可視化されて共感が生じたとき以外は無理だろうと感じました。
ちなみにこれは「コロナの死者年間数万人!」というような数字の可視化ではなく、自然災害や戦争のように本当に悲惨な状況が可視化されないと無理だと言うことです。
さらにちなみにコロナの死者や後遺症者の状況の数字ではなく実際を可視化することは報道によって可視です。報道はそれをやらなかったと言うことです。
その2。これは逆にマスク着用を訴えている層に対する絶望です。彼らの多くは、岸田政権を批判し、みんなが選挙に行っていれば自公政権ではない違った社会だったのに……今の状況はお前等愚民のせいだと非難します。
内閣支持率だけを見たらそう感じるかもしれませんが、政党支持率などを見るとそう簡単な話ではないはずです。
ようするに、彼らは「今の状況ならみんな私たちと同じように考えて、私たちと同じような投票活動をする」と信じているわけです。私は共産主義というのはこういう幻想に支えられていると思っていますし、この幻想は全体主義の種だと思っています。