Xで在阪メディアのあり方としてどんなポストがなされていたのか知らないけど、維新と在阪メディアが繋がっていて、報道において維新批判がされないという方向?
まあ繋がりというのを完全に否定する気はないんだけど、ボクは財政問題やエリートの考える自分たちが損しない(自分の高い価値の分だけ高い対価が得られる)平等といった視点、日本型新自由主義的な価値観……なんかそういったものを共有している結果として、それぞれが自分たちの利益を追求している行動が繋がっているように見えている部分も大きいのだと考えてる。スタンドアローンコンプレックスみたいな、ね。別の言い方をすれば、維新と在阪メディアは相関ではなく疑似相関のような関係性だということ。
加えて言えば、報道の人間が維新と似たような価値観を有していたら、維新政治の問題点に気付くことはできないし、むしろその政策の実現を応援するような報道姿勢を取るだろう。もちろん中立の中心も自分たちの価値観を中心にしたものになる。
さて、なぜスタンドアローンコンプレックスとして認識することが大事かというと、日本型新自由主義のような価値観に囚われているのは在阪メディアに限らないという視点を持つことが重要だということ。
まず広くメディア、広告業などはその影響を受けていて、その力を使って積極的に広報、布教の役割を果たしてる。
そして大量の一般市民がそのような広報、布教の影響を受けているということ。それは下手すればマジョリティ、団塊ジュニア男とかだと確実にマジョリティを構成してる。そういう人たちもまた維新政治の問題点は見えないし、中立は維新のような価値観ということになる。
逆にいえば、リベラル、左派というのはマイノリティで、その言葉が伝わらない人というのはたくさんいるということ。
言い換えれば、リベラル、左派が思うように社会を変える為には、小手先ではなくて自分たちの声がもっと多くの人に届くように社会全体の価値観をシフトさせなきゃならない。コロナ禍というのはその一つの機会だったけど、その機会では社会は逆の方向にシフトしてしまった。
ようするに、維新と在阪メディアの関係に焦点を絞るというのは、市民は(政治に関心を持ってくれたら)自分たちの味方だというような幻想に囚われているとか、自分たちを理解してくれない社会という現実から目を背けてるとか、とにかく社会を変える(今がどんな社会なのかきちんと認識する)から逃げて、政治を変えるに執心しているようにしかみえない。
リベラル、左派も自分たちの考えるより良い社会にする為には、自分たちの膨大な労力、犠牲が必要だと言うことに心の奥底では気付いてるんじゃないかな。しかしその犠牲の予感から犠牲を避けられる行動の方に逃げている。
リベラル、左派が社会と向き合って、今の現象を新自由主義のような共通する価値観によるスタンドアローンコンプレックスとして”も”捉えられないと悪ければこれからも新自由主義的な思想が社会に影響を与え続けて何十年も失われると思う。数が多く新自由主義比率も高い団塊ジュニア世代が責任世代でもあるわけだからさ。
あ、リベラル、左派の「維新と在阪メディア!」は「自民党と統一教会!」とも似ている。
ちなみに、自分が犠牲になる予感というのは社会(政治)を方向付ける重要なファクターだと思う。社会学者のみなさん、どうでしょう?