sozinkouのブログ

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安楽死

安楽死という制度が問題なんじゃない。

社会に対する生産性や他人に迷惑をかけないコトなんかで人を評価する価値観が蔓延する社会だと、自己評価や生きる意味なんかもその価値観の影響を受ける。

そしてそういう社会で、年老いたり障害を持ったりしたときに、社会貢献の低さや他人に迷惑をかけたくない……と安楽死という制度が利用する人ことが問題なのだ。

そういう人を積極的に生み出して支援するために、生産性や自己責任などの価値観を強く掲げつつ、安楽死制度を導入しようとする人たち(切り捨てたい人が自ら望んで死を選びやすい環境を整えようとする人たち)こそが闇深い大問題なのだ。

逆に、病気への向き合い方として、闘病という選択をしないことは悪いことじゃなく、その選択への支援としての安楽死というのはあっても悪くない。

 

命は大切だから安楽死制度には反対というような運動は成功しないだろう。それは社会の人間のマジョリティの恐怖や不安に向き合えていない。

もっと言えば、パーソナルでエゴイスティックな生きる意味というのを持っている人もたくさんいて(というか私はそれこそ生きる意味の本質だと思うけれど)、そういう価値観の元での「○○できないようになる治療はしない」「もう十分に生きた」というような考え方は尊重すべきアイデンティティだし、それは人間の多様性でもあるだろう。

安楽死に反対するようなリベラル、左派なんかは社会と戦うことに意義を見いだして、そこに生きる意味(死ぬまで生き続けなきゃいけない意味)も見いだしてしたりしてわからないのかもしれない。

 

最後に。

リベラル、左派は、「生産性なんて関係なく人は生きていい」「人に迷惑をかけても生きてもいい」「あなたがあなたらしく生きる事を手伝うことが私が私らしく生きると言うコト」というメッセージを全く市民に伝えられていない。むしろそれを信じられなくなっている人が増加していると言うことを自覚して、社会と戦うのではなく、身をとことん切って、人を実際に助けるべきだと思う。それが社会に自分たちの考え方の種を蒔く土壌を作り、種を蒔くと言うことだと思う。種も蒔いてないのに何も芽吹かない。枯れ地が広がっていく。

ちなみに今のリベラル、左派がやっているのは「私たちが私たちらしく生きるために一般市民の皆さんがどうストイックに禁欲的に自分らしく生きるべきかのマニュアルを作りました。これに従って清く正しく生きて下さい」という独善の土壌作りと種蒔き。