私の場合、当人も元気なうちは「延命治療なんてしないで。管につながれてベッドで寝てるなんて嫌だ」と言ってた人だったので延命治療拒否したんですが、その状態になった時点での当人の意思を確認できていないので、結局のところ私が家族を死んでもいいと切り捨てたのだという事実を抱え続けています。 https://t.co/bkfqxjFqe3
— snow (@snow_gray_) 2024年12月13日
RT元の吉村知事の方。
こういうツイートを見ると、万博のテーマ「いのち輝く未来社会のデザイン」ってそういう事なのですねとどうしても結びつけて考えちゃうよね。
いや、ボクは尊厳死、安楽死の制度というのはあって欲しい人間だよ?吉村知事のツイートに示されている気持ちというのはよくわかる。しかし、この気持ちを生産性重視主義者とか財政規律重視主義者とか新自由主義的な人たちとか……そういう人たちに絶対に利用されてはいけないと思ってるんだ。
ボクはそういう思想の人の言うそれに不純な動機が入ってないということを全く信じる事ができないんだよね。
snowさんの言うようなナラティブというのは社会に対する強いカウンターにならないと思う。それはモノの見方の視点の違いの問題に過ぎないし、吉村知事のような視点のナラティブに対して共感する人というのはたくさんいるだろう。
リベラル、左派側の人たちは、この吉村知事のようなポストのような視点に対する市民の共感を利用して、強化して、市民を操作しようとしている人たちがいるということをとても軽視していると思う。施政者とか広告業とかね。
そして、自立心、自律心、ポジティブな感情から妬み嫉みや恐怖といったネガティブな感情まで、そういう自然と人間のモノの見方に影響を与えてしまう何か全般に対して非常に想像力が欠けているというか。
まさかこのこと自体が理解できてないとかそういうことはないよね??
ボクははっきりと弱者切り捨てに加担しちゃダメと言うのが一番だと思うんだけどね。そうはならないと屁理屈を捏ねるんだろうけど。まあ医療費や社会保障費、自分自身の社会における生産性と死生の選択は切り離して考えましょうって強い啓蒙とかやって初めてそれを信じるスタートラインかなって感じ。
モノの見方の違いについて少し具体的に。
あまり当事者に対してこんなことは言いたくないんだけど、それを事実と感じるのはそういうモノの見方をしているからで、逆にその決断をしなかった場合、意思の示すことができない当人の意思より自分の生きていて欲しい気持ちや生命倫理観を優先したかもしれないという思いを抱え続ける事になると思う。
結局、意思を示せない人の意志というのは信じる事しかできないわけで、それなら当人が示していた意志というのを信じるのが自然だとボクには感じられる。
生前の意思というのには「家族がその状態の自分が生きる事をどれだけ望んでくれるのか」って問いも含まれている人もいると思うけど、それと対になるのはその為に自分の苦痛にどれだけ耐えるのかというような問いだろうから、仮に気に病むとすれば、「生きる事を望んでくれている周りの人の為に自分の苦痛に耐えて生きたい」と信じさせてあげられなかったということになるんだと思う。
しかしそういうバランス感覚というのはその個の持つ個性でもあるので、あまり背負い込むのはその個性を尊重できていないようにも感じられる。自分が生きる選択をさせることもできたなんてのは傲慢だと言うか。仮に選択させられたとして、それは本当の善なのだろうかとか。
うん、とても難しい。
ちなみに、ボクは延命治療拒否派だけど、仮に意志を示せない状態になって、それでやっぱり生きたいと思ったとして、それで家族が延命治療をしない選択をしたとしても、それで家族が自分の死を選択したと感じることはないと思う。自分の気持ちよりボクの意志を尊重してくれたのだとそこは感謝すると思う。あるとすれば自分の死生観は間違っていたという後悔だろう。
ま、事前の延命治療中止の意志を改めて示せない状態になって、そのときに意志が変わっていない場合、家族が生きてて欲しいと思って延命治療中止を決断できないならそれはそれで仕方ないねと受容するしかないと思ってるよ。でも決断できない理由が、家族への気持ちではなくて、自分の生命倫理観とかの思想に殉じる行為なら、受容できないな。まあそういう信用できない人には元から自分の意志は示さないけれども。