sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

展望

年も明けたので悪い未来の展望でも書いてみようかと思います。

 

まずは当たって欲しい展望です。

前回書きましたが、これはコロナ禍の倫理観喪失が問われて、社会が倫理観を回復することです。自分勝手に振る舞いたいばかりに屁理屈を捏ねて非科学に突き進み、助けられるはずの大勢の命を見殺しにしたことに今後社会は向き合えるのでしょうか。

向き合えないとしたら、もうちょっと歴史になってからコロナ禍は倫理観喪失の時代と総評されるでしょう。それに広報として加担した報道、マスコミも「報道、マスコミの権力批判は民主主義の健全性を保つ重要な機能」という教訓とともに民主主義社会における報道、マスコミ暴走の最悪の事例の1つとして歴史に記録されることでしょう。

 

 

次に外れることを祈る展望です。

保守二大政党制

政権批判が強まっている状態で衆議院選挙になり、維新や国民の準備が整っていれば、政権批判票がその二党に流れる可能性は十分になると思います。その先例が大阪です。

立憲民主党共産党政権交代に至るような政権批判票の受け皿にはなり得ません。理屈先行で主張が先鋭化しすぎていて、人間らしさを喪失しています。現実を生きている人間に寄り添えていません。それでは民意はついて行きません。

弱者にしても自分たちが寄り添いたいやり方で寄り添える弱者を選別して彼らに寄り添っているだけです。弱者ですらリベラルや左派の独善のせいで生き辛さを感じている人はたくさんいます。そのことに気付いてください。

 

リベラル、左派による抑圧の暴発

先に「リベラルや左派の独善のせいで生き辛さを感じている人はたくさんいます」と書きました。

ヘイトでも差別でもそうですが、表現することを奪うということは孤立させると言うことです。では孤立した人間が、同じ考えを持つ人間に出会ったらどうでしょうか。一人ではなかった。同じ考えの人間がいた。それは劇的な体験になるはずです。その劇的な体験は人になにを齎すのでしょうか。

別の視点から言えば、今のヘイトスピーチを行うもの、差別主義者は、表現規制により孤立させられることを恐れていて、その未来が来ないように頑張っているように思われます。

 

蛇足。

私はヘイトスピーチの禁止のような表現規制は、それが社会にそれなりの影響を及ぼす懸念がある発展途上の社会におけるやむを得ない策であって根本的な策ではないと思います。

もちろん根本的な策というのは、ヘイトスピーチが行われても社会は耳を貸さない、影響力がほぼない社会を目指すことです。それにはやはりヘイトスピーチを行ってしまう、差別を行ってしまう、その人間なら誰にでもある本質に向かい合うことだと思います。

しかし独善的なリベラルや左派の多くは、自分の内の差別心のような負の側面と向き合うことなく、ただ理屈を言葉で理解しただけで自分が理想的な人間になったかのように勘違いし、その言葉で理解しただけの理屈を原理主義的に恐怖支配で市民に押しつけているだけです。

自分の負の側面と向き合って、理想の自分とのギャップに苦しんで、それでも理想の自分に近づけるよう努力している人間として、同じような悩みを抱える大多数の普通の市民と向き合って、ともに歩もうという姿勢を見せることが肝要かと思われます。