リベラル、左派は表現の自由戦士というレッテル貼りによって、リベラル、左派が行う表現規制に対する反対論者の一部をまるで反対論の全体のように扱い、その極論あるいは偏った反対論に反論することで、自分たちの表現規制の自己正当化を図っています。
- 自分たちの表現規制は必要な良い表現規制
- 自分たちの自由な表現が規制されるのは悪い表現規制
- 表現の自由戦士は、悪い表現規制には寛容で、自分たちの事ばかりを攻撃する
- 例えば、○○の表現の自由侵害の件は問題視しないじゃないか
- 彼らは表現の自由なんて求めていない。自分たちを攻撃したいだけだ
みたいな感じです。
原理原則から言えば、表現の自由全体を守ろうとするのは確かにそうですが、まず人間のリソースは有限です。どの表現の自由を優先して守るかはその人の価値観次第です。リベラル、左派に決められる覚えはない。
そして表現の自由戦士が表現の自由を求めていないから導き出せるのは、リベラル、左派は表現規制を行っていないではなく、リベラル、左派は表現規制を行っているが表現の自由戦士にとやかく言われる筋合いがないという程度の論です。
最後に、表現の自由戦士の一人として言っておきます。
ちなみにヘイトスピーチ禁止についても私は表現規制だと思っていますが、現に社会の少数者に不利益を与える社会である以上は仕方がないと考えています。ヘイトスピーチを発するものが、例えば、ヘイトスピーチの対象、ヘイトスピーチに嫌悪を持つものという社会との大多数の人間との出会いや交流という可能性を自ら潰すだけの社会なら不要だと考えます。人間の社会はそうはならないというなら、残念ながらいつまでも必要でしょう。