今日はsnowさんという人のツイートを利用して記事を書こうと思います。私はこの人の視点は好きです。
このツイートで取り上げられている記事はこちら。
SNSの「ウケる物語推し」が招く「怒り消費」依存症 | リーダーシップ・教養・資格・スキル | 東洋経済オンライン | 社会をよくする経済ニュース
私もナラティブの社会に及ぼす影響というのは考えますが、この記事のように物語推しが悪いとは思いません。リベラルや左派が物語るのが下手くそなのが悪いと思っています。
ちなみにウケる物語推しというならオバマの選挙運動もそうです。「ストーリーが世界を滅ぼす」という本を読む気はありませんが仮にオバマ旋風に言及してないならあやしいです。
また経済優先、人命軽視の物語がウケる物語として推されている現状についても指摘しておきます。
あと、自己責任論は自立や自律という人間の本性を結びついてウケる物語にしやすいということについても指摘しておきます。
さて、このsnowさんのツイートの疑問ですが、私なりの答えは
この問題意識を語る人たちが「(バイアスにしろナラティブにしろ)そういう知識を持っているものは、自己批判ができていて、その影響から逃れられている」と勘違いしていること、実際には2極のどちらかに帰属していることに無自覚なこと
の2点になります。
ちなみに、私は錯視から自分が逃れられない時点で、脳から意識に伝わる情報を正しく認識することは諦めました。しかたないので信じるために(信じるか信じないかがセンシティブな問題は)なんでも疑います。
話を戻します。
意志決定は当人の自由にあるというより、かなりのところ土台にある無意識的・反射的・情動的な世界解釈(意図して選んだのではないストーリー)に掌握されている、というのが実情のようです。
私の答えの根拠は例えば元記事の上記引用部分です。この記事の著者は、括弧でくくられた部分(意図して~の部分)において、人間の意思決定の不自由さを矮小化しています。すなわち、意図してストーリーを選べば、或いは、意図してストーリーから距離を取れば、意思決定の自由は取り戻せると考えていると思われます。
しかしメタの視点で言えば、「物語を憎んで人を憎まず(記事より)」という物語を距離を取る姿勢もまた、無意識に潜在して、情動的な意思決定を生みかねない物語なんです。
すなわち、この問題意識を真に語るには、先に引用した言葉を並び替えて説明すると、
”意志決定は当人の自由にあるというより、かなりのところ土台にある無意識的・反射的・情動的に掌握されており、その無意識に潜在して把握もコントロールも難しいのが世界解釈(意図して選んだのではないストーリー)というのが実情のようです”
という認識が必要だと言うことです。
ちなみに私は、錯視から逃れられないので、脳から意識に送られてくる情報を客観的に正しく認識するということは諦めました。しかたないので信じるために(信じる信じないがセンシティブな問題については)全てを疑います。それでなんとかなるとも思いませんが。
あともの凄く蛇足なのですが、ツイ廃に構うのは時間の無駄です。よほどの才能に恵まれた人でもない限り大量のツイートやRTの質を維持できるわけがありません。
ちなみに私のツイ廃の定義はRTを含めて年間1万ツイートです。これは私の1日のツイートとRTの限界が30程度だからです。一つのツイートには十分時間を掛けますし、知らないアカウントをRTするときにはプロフと100ツイートくらいは読んでどんな人間か確認します。
例えば、自分と同じ意見だって動機が違えばRTしていいかどうかは変わります。私は安楽死や尊厳死には賛成の立場ですが、維新の人間がそれを語ってるときにRTは決してしません。
あ、それとこれはsnowさんとは全く関係のない話なのですが、引用RTに対してブロックする人への対策(下手すると捨て台詞付き)として、今後もツイッターは使わずにツイートに対してブログで書くことにします。別にツイート主に語りかけているわけではなく、自分の意見を表明する道具として使っているだけなので、当人が気付かなくても良いですし。ま気付いてイヤなら鍵でもかけて対抗して下さい。