sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

新型コロナの感染拡大に関する悲観的予測と楽観的予測、外れた場合に罪深いのはどちらでしょう。

私は新型コロナの感染拡大の悲観的な予測というのは、人命やQOLを守る事を前提としてできる限りの対策を求めるものだと考えます。反対に楽観的な予測というのは、自分以外の命、QOLを切り捨ててOKという事を前提として、自分の利益の為にすべき感染拡大防止対策の免除を求めるものだと考えます。

私は、人の命や健康を大切にする悲観的な予測が外れたからと言って人としての信頼はなくしません。そもそも科学ってトライ&エラーで予測が外れたなら検証を通して新たな知見を得て修正していくものです。逆に言えば、予想が外れるかもしれない可能性というのは常に考えておくべきものです。検証は科学の発展の為の道具であって、批難、批判、攻撃の道具ではありません。

その点、収束するする詐欺、五輪では感染拡大しない、イソジンや大阪発ワクチン、楽観的な予測、楽観させる情報で経済を回した結果として、感染者が想定外に増え、必要な医療が提供されない、医療は崩壊する、感染者が増えれば増えるほど収束に時間がかかり緊急事態宣言が延々と続く(経済を回さないとと感染拡大防止対策を疎かに経済を半端に回した結果として経済が長々と回らなくなる罪深さ)……。本来なら死なずに済んだ人、健康を損なわずに済んだ人たちの事を考えると、自分や大切な人たちの命や健康に大きなリスクを負わせた事実を考えると、現実の日本で引き起こされた事実を考えると、経済の為にコロナを軽視し続け、楽観的な予測に基づいた政治、政策、行政を行った人たちに対して、人としての信頼を失い続けています。言い換えれば、現在進行形で社会に対しての信頼を失い続けています。

経済や現状維持に固執した楽観の政治、政策、行政については、その時点での新型コロナの科学的知見に基づいて行われたのかについての検証が必要でしょう。

楽観の言論についてもその時点での新型コロナの科学的知見に基づいていたのかの検証が必要でしょう。PCR検査の事前確率重視は妥当だったか、ただの風邪説は妥当だったか、インフルエンザとの比較は妥当だったか……。

ちなみに私は、予測が外れた場合の被害というものについて考えた場合、楽観の予測、過度に楽観や安全に人を誘導する情報については人道上の検証も必要だと考えます。

とはいえ経済重視が行き過ぎて非人道的になった思想でも弾圧するのは個人的には好まないので、今後の選挙については、自民、公明、維新以外の候補者に投票しに行けます。ワクチンを打ったので次の衆議院選挙にも行きやすくなりました。そして、今後は身の回りに新自由主義者の人でなしがいたら反新自由主義者としてそのことを遠慮無しに角が立とうが何だろうが指摘していこうと思います。

 

蛇足

もともと東日本大震災以降辺りから(たぶん私が見落としていただけでもっと前から兆しはあったのでしょうが)、パニックを誘発するようなデマにはやたら強く反応し、主に経済の為に偽りの安心をもたらしリスク回避行動を抑制する為のデマには寛容な社会というものに対しては危惧していましたけど、その最悪の形をコロナ禍で目の当たりにするとは思いませんでした。