sozinkouのブログ

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リベラルの残念さ

パヨクかネトウヨかの二元論で言えば、ネトウヨではないのでパヨクと言うことになりますし、このブログで書いてる内容も反政権的なのですが、リベラルにはリベラルの残念さがあって、そこに属したいとは全く思っていません。というかあそこに属するのは私には無理です。

リベラルの残念さを一言で言うと独善的だという事になります。

客観性のない彼らは「ぼくのかんがえたさいぜんのしゃかい」「ぼくのかんがえたさいぜんのひと」「ぼくのかんがえたさいぜんのりくつ」というものを平然と人に押しつけてきます。

客観性のない彼らは自分の中にも善悪があることに気がつかず、他人に対して心の中にまで踏み込んでひたすら善を求めてきます。だからすぐ彼らの言葉はブーメランになります。

客観性のない彼らは共感が欠如しています。彼らが弱者のことをわかっているというとき、それは知識としてわかっているに過ぎません。だから彼らの弱者の理解は底が浅く多様性がありません。多様性に対する寛容もありません。

リベラルというのは完全に宗教に劣るモラルシステムだと思います。既存の宗教のモラルシステムが旧態依然として今の社会に対応できていないのは確かだと思います。

しかし、例えばリベラルが提示する反差別や反ハラスメントといった新しいモラルは、人間ならだれでもある善と悪の内面の葛藤をシステムの中に組み込めていません。人というものの本質を無視して、みんなが「ぼくのかんがえたさいぜんのりくつ」を理解すれば、内面から悪を追い出して善だけ残るはずだと考えているようです。

言い換えれば、自分の中の善だけを見てそれに酔って他人にもその善を押しつける事に快感を覚える外罰的な人の為のオナニーシステムです。自罰的な人は追い込まれます。その自罰的な人があげる苦しみの声にすら共感できず、ひたすら「ぼくのかんがえたさいぜんのりくつ」を理解できないことを糾弾し、差別やハラスメントというレッテルを貼るのが彼らです。

例えば差別って言うのは差別心を持つことではなく公私を混同してその差別心を公に持ち込むのが問題の本質なんです。もちろん公私の分離というのは厳密には非常に難しいものですし、特に表現の面でそこをベースとした対策が難しいのはわかりますが、彼らはそんなレベルで物事を考えることが出来ません。彼らには、差別心とそれを消しきれない葛藤、それを公に持ち込んでいないかという恐れ、そんな複雑な感情など理解できません。

理屈がわかっていれば差別心を持たないと思い込んでいるからです。理性による心の完全コントロールが幻想だと気付いていないからです。自省できないからです。だから人の中の差別心すら糾弾できます。それが人の心に踏み込む恐怖政治だと気付けません。

そして彼らは自分と同じ差別をしない人間(実際は差別をしてる自覚がないだけなのですが)を作ろうとひたすら努力します。

彼らはまた「善良であること」を選択した人が多数派の社会であるように人に振る舞うように唆します。彼らは「生きること」と「善良であること」の葛藤なんて意に介しません。彼らは「善良ではない社会」を善良だと信じて「生きること」の葛藤なんて意に介しません。彼らは生きにくいけどなんとなく生きていた人に「○○だから生きにくい」と言う呪いをかけます。そして彼らは社会も変えず、社会が変えられないなら必要な分くらい用意すべき受け皿も用意せずに、幻の「ぼくのかんがえたさいぜんのしゃかい」の被害者を生み続け、社会への糾弾に利用してばかりいるのです。

 

余談

私は男性差別に気付かない、無視する男性フェミニストが本当に嫌いです。女性は仕方ありません。女性の立場で物事を見るのは当然でしょう。男性は本当の男女平等と女性の立場で見た男女平等の違いに気付けるはずです。女性は本当の男女平等と男性の立場で見た男女平等の違いに気付けるはずです。男性が「本当の男女平等と男性の立場で見た男女平等の違い」の指摘に耳を傾けるのが重要なのと同様、男性は本当の男女平等と女性の立場で見た男女平等の違い」に声を上げることも重要なのです。女性がその指摘に耳を傾けられるかも重要なのです。

ちなみにこれはアファーマティブアクションを否定するものではありません。例えば40代以上の理系の男性なら女性があまり競争相手にいなかったことで、競争が30%~40%近く楽になっていたはずです。ちなみに私の入った理系の学部は女性率が10%くらいでした。フェミニストを気取っている40代以上の理系の男性は自分の今の立場が社会にあった女性差別の結果だと言うことをまず自覚してください。従ってその恩恵を是正することは悪いことではないと考えます。逆にいえば、私は女性の職場とされていたものに対する男性優遇も否定しません。