それと地方密着型で比較的安定した貴重な仕事がなくなってしまいます。基本的に国内の介護は国内在住者が行っているので非常に筋のいい「公共事業」だと思いますけどね。 https://t.co/uvxo9DGMIh
— snow (@snow_gray_) 2025年1月8日
こういう言論というのは、コロナ禍の初期にあちらこちらが経済がどうたらこうたらと言い出したときに、既存の経済を回すという価値観に対するニューノーマルを提示するカウンターとしてもっと積極的に放たれるべきだったと思ってる。
あれはそういうカウンターを放てる一つのタイミングだった。もちろんカウンターを放っても、今みたいに明けてないコロナ禍明けが演出されて、日常を取り戻す!方向に進んだだろう。しかし社会に対する多少の楔にはなったと信じたい。
そして、今のこの選択をしてしまった社会に対しては、もうそうしたカウンターがしばらく機能しないだろうと感じてる。そのカウンターの受容には今の選択に対する反省という痛みが伴うから。
コロナ禍にもそういうカウンターを放っておられた立岩真也先生が亡くなられたことはつくづく残念だなあと思います。
新型コロナの医療現場に、差別なく、敬意をもって人に来てもらう(立岩 真也) | 現代新書 | 講談社(4/5)
社会福祉については長くなるから後で書き足す。
短く書いておくと、今の社会は社会福祉に不向きな価値観に満ちているという話。
あ、ちなみに「相談!」はお金をかけないでやってる感を出すためのアリバイ作りの面が大きいと思ってる。相談の後にその問題に応じて救済するシステムが用意されてないなら、用意されていても繋いでもらえないなら、相談なんて無意味じゃん?
そしてその相談を真面目にやってくれるか否かってのは人にかかっていて、今の社会はそういう人が育てられないシステムだと思ってる。財政や人定資源のコトを考えずに人を救おうとするような人は評価されない社会だしって話。