sozinkouのブログ

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政治運動と自己愛

政治運動をしてる人たちって真剣に生きようとしている人間なのかな?

もう政治運動って自己愛が強い人たちの自己愛を満たす道具になってない?ってのがボクの正直な感想だけど。

ネトウヨとか反ワクとかそういうのは言わずもがなだと思うけど、ネット上の自称リベラル(実際には似非リベラル)、左派だって悲惨な状況だよ?

差別主義者なリベラル・左派、全体主義者なリベラル・左派、多様性を尊重しないリベラル・左派、表現の自由を尊重しないリベラル・左派、権威を振りかざす暴力的なリベラル・左派……

彼らは鏡を見てそういう自己評価ができないどころか、そういう指摘に自己正当化してしまう自己矛盾に満ち満ちてる。

こういう理念や理想に関わる自己矛盾というのは、政治運動というのが目的を達成するための手段ではなくて、自己愛を満たすのに都合が良い種類の政治運動を続けて自己愛を満たし続けることが政治運動をする目的になってしまってるからだと思うよ。

だから例えば、LGBTQ+が社会に一定以上認められる社会になると、その社会と自分を差別化する為により過激でより先鋭的でLGBTQ+の権利に関する主張を掲げるようにもなる。差別主義者という敵と戦い続けないと自己愛が満たせないから。

加えていえば、政治運動が自己愛を満たす手段と化しているからネット上で政治運動をやってる人たちには陰謀論者で溢れているんだとも思ってる。ボクは自己愛の強さと陰謀論者になる確率は関係してると考えているからね。隠された真実も自己愛を満せる道具だから。

こういうのって社会の評価=自分の評価みたいな社会なのも一因なのかな。

 

ボクはリベラルというのは悪い思想ではないと考えているよ。

「チ。 —地球の運動について—」というマンガで、人間は神と獣の間の存在というような事が書かれているのを見たけど(元ネタを知るべきなんだろうけど)、それで言うとリベラルというのは人を神の方に近づけようとする思想だと思うんだ。

でもね、やっぱり人には獣の部分があって、当然リベラルの人たちにも獣の部分があるはずなんだけど、自分たちのそこは見ない振りをして或いは本気で気付かずに、他者の獣の部分ばかりをあげつらって攻撃している事には違和感しかない。

リベラルの思想を掲げる人というのは、自分の獣の部分と向き合って、理想の自分と現実の自分のギャップに葛藤して、時に獣の自分に打ち勝ってよりよくあろうとし、時に自分の内面の獣の部分を受容しつつアウトプットとしては絶対的に昇華することを求める……というような経験を積み重ねて前に進んでいくモノだとボクは思うんだ。

そして自分にもまた獣の部分がある事を受容し、その上でよりよくあろうとする経験を積んでいる人というのは、他者に対してとても寛容だと思うんだ。

しかし今のリベラルの人というのは、全く不寛容だし、自分と向き合えているようにも見えないし、結局の所、リベラルという経典を読んで、リベラルの悟りが開けた!と勘違いしちゃってるだけの人たちにしか見えないんだよね。

そんなわけないじゃん?リベラルはそんな便利な道具じゃないよ?

リベラルというのは自分自身も痛みを感じるような思想だよ?

 

蛇足だけど、ちなみに、ボクはリベラルの表現規制というのは自分たちの内面の獣の部分を不可視化したい欲求の表れの部分もあると思っている。