sozinkouのブログ

取るに足らないナニカが素人考えを綴る場所

自閉スペクトラム

https://twitter.com/gameryouiku/status/1813381619631419793

これ、意味がわからなくてずっと考えてた。

  • ASDではない人が他者の視点で考えるときには「自分はこう感じる」という視点が含まれている。

  • しかしASDの人に「他者の視点を想像すること」について説くと、「自分はこう感じる」という部分を抜きに、他者の自分に対する今までの言動などから分析的に他者の視点というものを理解しようとする。

  • それは、自分(ASD)のインプットに対する定型発達のアウトプットへの理解というものが条件が抜け落ちた極論になりやすいことを意味する。

こういうこと?

下手な例に置き換えると。
例えば、定型発達ははっきりと物事を言うことを好まない。「これはイヤだ」とは言わずに、乗り気じゃない素振りをする。そして乗り気じゃない素振りをイヤだと認識できずにしつこくしたとして、定型発達が怒ったとする。
これをメタから見れば【イヤがってること】をしつこくしたから定型発達が怒ったという現象だけど、イヤがってるという認識ができない状態であれば、自分の何かしらのインプットと定型発達の怒りというアウトプットを結びつけるしかない。
そして例えば「しつこく言いすぎると定型発達は怒る」というような理解をする。
結果として、ASDは定型発達にしつこく言わなくなる。
もしイヤというメッセージを発していない場合、しつこくすることが拒否されない場合というものがあるにも関わらず(このシチュはちょっとわかりにくい?あるよね?)。過剰適応の一例。
こういうこと?

とりあえずこの理解でいくとして、

https://twitter.com/gameryouiku/status/1813389482961645824

ボクはこれには少しだけ違和感がある。
1つは、起点としての自分(ASD)が定型発達と同様のものを有していない場合、起点としての自分から視点を広げて定型発達の他人視点を想像するというのは困難だと思うこと。上の例だと、なぜ定型発達がハッキリと言葉にすることを好まないかと言えば、それを他者に対する強すぎる表現だと考えて、自分自身もその強い表現を他者にされることを好まないから、他者にそうすることにストレスを感じるからなんだよね。
しかしこれはハッキリ言葉にできて、且つハッキリ言われることにストレスを感じない人には理解できない概念だと思う。
ハッキリ言われることにストレスを感じられる人が対象なら、自分を起点にして、視点を広げていくということは要領がわかればできると思うけど。
そういう定型発達側の視点の抜けたASDの対定型発達マニュアルってボクはバッドノウハウ集だと思ってる。そしてそれを校閲してちゃんとしたノウハウにできるのは定型発達の側だし、そうするのが役割なんじゃないかな。

2つめは、根本的疑問だからボクが知らないだけでもう答えがあるかもしれないけど。
ASDが苦手なのは「他者【定型発達】視点を想像する」だよね?しかし、逆に定型発達も「他者【ASD】視点を想像する」のは苦手でしょ?
じゃあ逆も同じで、定型発達が「他者【定型発達】視点を想像する」ことが容易なように、ASDも「他者【ASD】視点を想像する」ことは容易ってことにはならないの?
SNS上でASDの人たちが定型発達と関わるためのノウハウを共有している姿って単なる知識の共有に見えず、共感を含んでるように見えるんだよね。やっと理解者に出会えたみたいなね。

しかし定型発達が可能な他者視点の集合とASDが可能な他者視点の集合が交わってないから、定型発達側からはASDの「他者【ASD】視点の想像」が上手く観測できてないんじゃないかなと。そして、これは下で引用したような脳科学の実験によって観測可能なんじゃないかなと思ってる。

脳はこの他者について考えるのに、異なる2つのクラスターのニューロンを用いていることがわかった。そしていずれのクラスターが活発化するかは、この他者とどの程度同一化するかに依っていた。

(中略)

ジョンに同一化した者たちでは、ジョンについて考えることは、副側領域の内側前頭前皮質(mPFC)のニューロン群を活性化させていた。ジョンに同一化した者では、マークについて考えると、mPFCの背側領域にあるニューロンの異なる一群を活性化させていた。

 

心の中のブラインド・スポット: 善良な人々に潜む非意識のバイアス

M.R.バナージ (著), A.G.グリーンワルド (著), 北村 英哉 (翻訳), 小林 知博 (翻訳)


また両者の集合の大きさや性質も異なると思うし、その違いを考えたら、やはり集合を拡大して包摂できるのは定型発達の側なんじゃないかな。
いや、仮にASDが「他者【ASD】視点の想像」ができるなら、それを「他者【定型発達】視点の想像」に拡張して集合を交わらせることも可能かな。定型発達的にはこっちの方が共存としてはより良い気もする。楽なだけか。

 

もしASDの他者視点の拡張をやるならヴィゴツキーの最近接発達領域の概念が使えるんじゃないかな。「他者【ASD】視点の想像」をスタート、「他者【定型発達】視点の想像」ゴールと考えて、ゴールに近づいていくような「他者【ASD】視点の想像」の最近接発達領域に働きかけて発達を促して、さらにゴールに近づいていくような最近接発達領域に働きかけて……を繰り返して、ゴールに辿り着いていくような感じ。
一人一人スタートも辿る道も異なるだろうから、個別的対応が必要だろうけど。

 

他にも、ヴィゴツキーの最近接発達領域の考え方によって、興味の範囲が狭いという個性を持っている人たちの個性を社会と関わりやすい興味へと広げるようなこともできるんじゃないかなと思ってる。

本人だけでは興味を持てない本人の興味の少し外にあるコトのなかで、社会と関わりやすいコトを選んで本人が興味を持てるように周りが働きかけるというようなね。

 

言葉を選んでるつもりだけど、差別的なことを言ってたらごめんね。
内容に関しては、ASDではない人間のASDに対する理解の一例という情報として扱ってくれたらありがたい。