sozinkouのブログ

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新自由主義やリバタリアニズムに対するカウンター

結局、新自由主義リバタリアニズムっていうのは、羨望や嫉妬、他者からの承認等々……人間にある自然な欲望や欲求をベースとし、その心を満たすのを優先することを自己正当化する為の究極の屁理屈の感情論だと思います。

結局、新自由主義リバタリアニズムの本質というのは

  • 人の自然な心に即した理屈を与えている
  • その理屈は、他者を犠牲にする代わりに、自分が得したり、楽したりできるものである
  • その理屈は、ある行動の心に関する部分を隠してくれて、逆にその行動に合理性や論理性を与えて、行動を正当化してくれる
  • その理屈は、他者の犠牲を正当化してくれる

といったように、人の本能的な心の部分に取り入ってくるものだということです。

そして、そのような新自由主義リバタリアニズムの提示する「快」に対するカウンターの「快」の価値観をどう社会に広めて根付かせるか……というのが現代の課題だと思います。

そこでその課題と向き合うのは、リベラル、左派ということになるのでしょうが、今のリベラル、左派は「良いことをしろ」と五月蠅く、「良いことをしている」つもりになっていますが、その「良いこと」というのは、確固とした土台のあるものではなく、恣意的に理屈をこね回しているだけの空疎なものです。そして先鋭化してしまって多様性を喪失した「良いこと」というのはストイックに過ぎ、人の仙人化でも求めているようです。生活感、もっといえば人間性も多様性も喪失しています。それをまるで絶対的なもののように他者に押しつけて改心を迫るのですから「不快」を超えて「恐怖」ですらあります。

ちなみに私がリベラル、左派に対して用いているカナリアの1つが性に対する寛容性です。今のリベラル、左派の言動に対してはもう鳴きまくっています。

宗教のように宗教家自身も自分自身の中にある人間の本質や生活と向き合い、その教えについても人間の本質や生活と向きあって今の宗教より寛容で多様性を持たせ、宗教のように赦しを含むシステムを構築すべきなのではないでしょうか。

今のリベラル、左派の主張は自分たちの主張を「快」だと勘違いしている節がありますが、それについては2つの種類の異なる誤りがあると思います。

1つは、自分たちにとって「快」だから、みんなにとっても「快」だろうという勘違いです。正しいルールを提示したりそれに従うこと、正しい道徳を提示したりそれに従うこと、良いことをするように求めたり良いことをしたりすること、正しい権威を提示したりそれに従うことは、少なくとも私にとってはそれ自体は全く「快」ではありません。それ自体が「快」を齎すこともありません。

2つめが、リベラル、左派が、他人に求めるストイックさというものを実際には獲得できていないにも関わらず、自分は自分を完全に律しているとでもいうような幻想に囚われていることです。修行もしないのに悟りの知識だけを得たことを悟りを得たと勘違いしています。そしてその偽りの優越感が齎している「快」を誤認しているのです。

 

そもそもリベラルや左派の主張にも、自己正当化する為の究極の屁理屈の感情論の臭いを感じます。

例えば子育て支援。子供の為に自分を犠牲にしたくないという思いを感じます。子供の為ではなく、子供の養育に自分を犠牲にせずに済む為のお金、社会制度が求めているようにも見えます。

しかしその子供の為に自分が犠牲になっているって価値観自体がもう新自由主義リバタリアニズムと同質なんですよね。

リベラル、左派がこういうものに囚われている内は、新自由主義リバタリアニズムが提示する「快」に対するカウンターの価値観というのは提示できないと思います。

 

ほんとなんとかならないものでしょうか。現在の社会には私みたいなのの価値観の受け皿というものが全くありません。

 

蛇足になりますが、もっと言えば、今の声の大きいリベラル、左派は福祉というものの本質もまた出来ていないと思います。

再び子育ての例になりますが、自分自身が輝くのではなく、自分自身が活き活きと生きているということが輝いているということなんです。だから別に子供の世話なんてそれ自体は輝いているようには思えないことをしていても、その世話という行為によって子供がより活き活きと輝いてくれたら、それが「快」ですし、その「快」によって自分自身もまた活き活きと生きられるんです。

リベラル、左派の給料や人員配置の主張はその気持ちを利用して搾取するなという主張に過ぎず、その気持ちの根本への共感を全く感じません。

 

さらに蛇足ですが、私が、リベラルや左派の主張が自己正当化する為の究極の屁理屈の感情論だと確信したきっかけは「学校の掃除は児童の労働搾取」みたいなバカなことを真顔で言っている人たちとそれをRTしている人たちの循環する輪を見かけた時です。ああ学生の時に嫌だったものを結論ありきで否定してるだけなんだなと。そうしてリベラル、左派を見直してみると一事が万事その調子でした。

私ですか?

掃除が嫌なら愚痴ってました。

どうしてもやりたくない気分ならサボってました。

なにか用事があるなら誰かに頼んでました。

別に理屈で否定する必要なんて今も昔も感じません。

多く事って人間関係の中で発散できて、それで十分なんですよ。

リベラル、左派のように人との関わりの中で不満やストレスを発散できない個性持ちの人たちを守る方法ってのは必要だとは思います。

しかしね、共感やミュニケーションが苦手なリベラル、左派を守るのと共感やミュニケーションが苦手なリベラル、左派を社会の基準にするのはまた別の話なんです。後者は多様性でも何でも無く単なる価値観の置き換えです。